意識高い系はどうしてうざがられるのか
意識高い系と言われる学生団体に入ってました
大学1〜3年生まで、NPO法人の学生団体で活動していた。
団体にはVisionとMissionがあった。私自身もそれに共感し、もっと世界を良い方向にしたいと本気で思っている。
他の学生との認識のずれ
しかし、友達や初めて知り合った大学生に「サークル何してる?」と聞かれた時にそう答えると「あ〜意識高い系ね。」と言われる。
そこに込められている意味は、何か含みのある反応を感じることが多かった。
自分とは違うと一線引くような、小馬鹿にしたような雰囲気が感じられ、寂しい気持ちになる。
意識高い系ってなんぞや
そもそも意識高い系ってなんなんだ。
意識が高い+系に分解できると思う。
「意識が高い」だけで見ると
目標を定め、それに向かって日々努力するようなイメージが思い浮かぶ。
でも「〜系」がつくことによって「意識が高い」のではなく「意識が高いような人」の集まりを指す意味が含まれる。
「意識が高いような人」というのは、まさしく学生に多いとされる。
向上心高い言葉を使うが行動や中身は伴わない人
という意味合いだろう。
意識高い系ってうざがられてるんかな
試しに、意識高い系と検索してみるとこのような予測変換が出る。
過去に意識高い系に酷い仕打ちをされたんか!?
と言わんばかりの嫌悪感である。笑
その背景にある固定観念を考えてみる
意識高い系という性質だけで直接害を被ったことがないのになぜこんなに嫌うのか。
そう考えてると、日本で大きな夢を語る瞬間って少ないなとふと思った。
生きる意味や夢を考えるより、今を妥当に生きるという現実主義が重要視されているのでは。
現実主義、堅実な態度がいろんな場面に出ている。
高校や大学を選ぶ時、ほとんどの人が自分の偏差値から最大限の努力でできるところを目指す。選択する時の軸に「〇〇がしたい!」とか「〇〇のためにこの学校に行くんだ!」がある人は私の周りにはほとんどいなかった。(私も含め)
就活でも「自分が叶えたい夢」を重要視する人はどれくらいいるだろう。
周りに就活をしている友達もいるが、自分の市場価値や自分が求める条件と最もマッチする就職先を選ぶという現実的な選択が多いようにおもえる。
「何かを選択する時、自分のwantだけでは叶わない世の中である。相対的な自分の市場価値を高め、どうやって自分を社会に適合させるかが大事。」という価値観を感じるのだ。
そこから生まれる意識高い系への気持ち悪さ
その価値観に伴って、夢を重要視して語っている人を見るとこちらが恥ずかしくなるという感情も芽生えるかもしれない。
自分と違う存在や違う考え方の人をみると、恐怖心や不安を感じるのは人間としてよくあること。
現実主義な自分の価値観との差に驚き、自分の考えの正しさが崩れることへの恐怖。
だから嫌悪感を抱き、無意識に「自分よりダサい考え方」だと否定のかもしれない。
意識高い系の一個人として伝えたいこと
言動と行動や結果が最初から伴う人なんて誰一人いない。
夢を語る時、誰しもは最初嘘つきでしょう。存在しないことを、あたかも実現したかのようにいうんだから。
でも、その妄想がないと絶対に世界はここまで変わってこなかった。
想像して、できもしないことをできる!!と信じるから、成し遂げられたことがある。
また、彼らを嘲笑う自分がいると「自分も夢をもってはいけない。」という十字架を背負う羽目になる。おせっかいな考えだけとすごく勿体無い。
誰しもが夢を持っていいし、私の方がすごいとひけらかしたいわけでない。
真実なんてそもそも存在しないし、だれしもが夢を持つことは自由だ。